2011-09-15

17通目:睡沌氣候

だいぶ前になりますが、ニュースサイトで見かけた記事「宮沢賢治、恋人がいた」http://goo.gl/5fu8t を読んでちょっとおどろきました。
そうか彼女がいたのか。いやそれより「いなかった」と思われてたのか。
なんかそれ気の毒。

小学生の頃、親が全集を買い与えてくれたおかげで作品はだいたい読んでいるものの、本人の生涯やその人柄については特に知らないまま大人になったわけですが、記事中にも「本人が仲間と開いたレコードコンサートで知り合った」とあるし、ウィキペディアを見てみたら、意外に恋愛エピソードがあったりして、なんだよもうリア充だったのかよと思ってしまいました。

しかし、生涯独身であったというのは事実で、結婚しようとしたら相手側の家に反対された理由が「周りから変人扱いされていた賢治の性格を気にしたらしく」とか、やはり日本を代表するサイケデリック詩人・作家というポジションは時代を先取りしすぎだったのかっていう件りがあったり。

相手の女性の生涯もドラマチックな展開すぎて昔の少女マンガっぽいなあと思ったけど、親に結婚を反対されるとか結核をわずらうとか、そういう時代だったのだなあと大正から昭和へとうつり変わる頃に思いをはせたくなりますね。

幼い頃には動物がコミカルな寸劇を演じるような作品が好きで繰り返し読んでいたけれど、大人になるにつれ、作中に内包されているサイケデリックさや、鉱物や星々に対する愛着、電信柱すら擬人化したり銀河に汽車を走らせたりするような想像力、みな一生懸命生きているだけなのになぜこんなにも苦しく切ないのかという「生」そのもへの葛藤を読み取るようになり、自分はずいぶんこの作家から影響うけているなあとつくづく思った事があります。
そうでなければなぜ、いつもこんなにもはかない気持ちになるのか。
「けれどもほんとうのさいわいは一体何だろう。」という一文が年を重ねるにつけふと思い出されるのかと。


自然を身近に感じる人は孤独な気持ちになりにくい、とどっかで聞きました。
この稀代の作家はおそろしく強い感受性で森羅万象を興味深く眺め、それらがとてもはかないことを知りつつもすべてが愛しかったのだろうなあと思うと、独身であっても決して「孤独」とは無縁だったのではないかという気がします。






さて本題に入ります。


コマツシンヤさんの作品集「睡沌氣候」は賢治っぽさ満載です。
化石、虹、キノコ、逃げ水、チェスの駒、銀河といったあたりが。
絵の雰囲気はイラストのようでかわいらしいのですが、すこし古びた幻想的な風景として描かれている町並みや、人外な脇役がとても良いですね。


自転車でひたすら遠くに行くとか、眠ってる間に散歩とか、スイッチがあったら押してみるといったセリフの無い作品はとり・みきさんの「遠くへいきたい」みたいで、他の作品より現代的な感じですね。この手の作品をもっと読んでみたいな。


ご本人のサイト「異次元社.com」で日記、イラストなど見れます。
サイダーの泡が銀河の星になっていくような幻想をお楽しみあれ。




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